昭和41年09月08日 夜の御理解
先日から、総代さんの高山さんが、先生、是非あの今度、ぶどうのあるうちに、ぶどう狩りに来てくれと。巨峰ですね。それであのう、ぶどうだけではありません。あの、献木のいろいろ、あの高山さんがお供えしようとしておられる、植木なんかもいろいろ見て頂きたいから、是非お願いしますと言ううことであった。でもやはり、向こうとしては、あの私共まあぶどう狩りやら、またそうめん流しやらに案内しようというのが、あちらの、まあ願いだったんです。
ですから秋永先生にもそのことを図って、やらして頂くことに決めておった。そして、あのお許し頂く時には、どうぞその前の日に連絡さして頂くような、ね、それで行くことになってましたけれど、まあ何かにこう差し支えて、行けんようにございましたから、秋永先生昨日断っとりました。私は別にどうってこともないから、やめようと言うて、まあ表でまっとりましたら、ちょうど今朝10時、11時頃でしたか、参りました。もうしゃっち、今日は行かんならんごたるふうになってから、あの参りました。高橋さんの車でみえられました。
本当にそのへんの、何とも言えんいろいろの、お繰り合わせの中に、だからこういうふうに、神ながらなおかげを頂いておるのであるから、私共がもし高山さんに言うとあちらはなかなか、ま、ご承知のように植木屋さんですから、まあ山にでも行ってあるというような時には、もう引き返してでも帰って来るつもりで御座いましたんですね。神様の働きが、私が行きがけに言うことなんです。
今日、高山さんがおらんごとあるなら、私は神様に文句言わんならんち。そんな冗談言うてから行ったんです。そうしましたら、ちょうどあの入口まできましたら、椛目に献木したいといい、また私もこれはいいなといっておるあの吉野杉の、一叢(ひとむら)?こうよしずになっておる、この客殿の手洗いの向こうに、これはどうでも、私が植えたい、また高山さんも、それをそうしたいと言うておられたのが御座いましたんです。したらちょうどその、前で何か一生懸命こう、作業をしておられるところでした。
ほんであのう、はぁおったなぁと言うてからその、まあ神様のご都合に、まあ恐れ入るわけで御座いますけれども、なんというですかね、その今朝からでしたか、証を立てると言った様なことを、御理解に頂きましたが、何かこう証を立てられたような気がするですね。本当にあれもお供えしたい、これもお供えしたいという、言うばっかりの人もありますです、ね。
それで今日、高山さんいわくです、これをお供えするならば、なかなか彫るのに周囲のところを切り払うとくとか、いろいろしとかんと、そのさあと言うて掘られんからと、その手順のいいように、今日は私が家でおるということも、まず滅多にないから、今日はこげんしてさして頂きよりましたと、こう言うんですよ。ね、まあそれを聞いてですたい、その何か言うておられることを、実証されておられるような気がするんです。
しかも今日は家内が、あの部落の婦人会で温泉行きをしとる。そいで今日はまた嫁子と2人であの留守番役を承ってから、と言うてから言うておられます。それで(?)終わりましてから、まあよか幸いで、私と久保山先生と秋永先生と3人で御座いましたが、家内も一緒にどうでもこうでも、ということでしたもんですから、すぐまた高橋さんがしばらく経ちましてから、家内呼びに来て下さいました。
そしたら今石庭の小川さんがみえてから、あの石庭造りをやっておりますから、毎日お弁当こちらから作って行くんですよ。所があちらが丁度そのもう弁当時に会われなかったと言うので、ちょうど持って帰って来たところに、高橋さんがそのそれで呼びに来て下さっておるんですよね。ですからその弁当あちさんもろうて行こうとて言うてから、それからまたそのお弁当を持って上の林田別荘のそうめん流しに参りました。
高山さんところでもですね、やはりお弁当でも作らんならんとじゃけれども、さっちその、私共目ん玉に指突っ込むようにしていっとるもんじゃから。それを出来ない所に、まあちょっと普通とではない、お人にあげられるようにしてお弁当作っております、大きな重箱二段、その持って来とりました。丁度それは神ながらなお繰り合わせ頂いて、あのぶどう狩りに参りました所も以前ここに参って来よりました田主丸の井上てつろうさんところの奥さんが、まあやっておられたことであった。
それでまあいろいろ、また他に本当に神ながらな事だったなあと、あのどうでもひとつ、あの孟宗の竹林を庭に造って、ところがなかなかもうそうの、それをもらう所がないと。それがあちらへ参りましたら、その隣の屋根から畑の中へですね、孟宗がもうまえと出て来ないわけなんです。それで何本もこちらへ出て来ておるわけです。ですからもうその話を私、致しましたら、とって頂くならもう、いつでも取ってよいからと言うてからそう言う様な事も今日はおかげ頂いてまいりましたが。
まあそれだけの事ではない、本当に肝心要のいろんな事の上にもです、もう万事神様のご都合だなあ、お引き回しの中にこうやっておかげを受けておるんだなあと。思わねばおられません。帰って参りまして、帰り道々の家内が現場にちょっと寄せて頂きたいと言うもんですから、あそこに下りてから見せて頂いたら、ちょうど小川さんも久富正義さんもみえて、もう石庭も一通り終わってですね、それを全部洗っておる所でした、ね。綺麗にあの大きな石を洗い上げて済んでおる所に、私共参りました。
だからどうでん一遍その、小川さんもお夕食ぐらい一辺上げたいと思うておった所で御座いましたから、私が合同で入って参りました。まあその辺の事でも何から何まで、その神様のお引き回しの中におかげ頂いておる。まあこれはなら私に言わせると、日々がそうなんです。ここで本当に私の信心を頂いて、おかげを受けておられる方達の場合はです、もう本当に何という素晴らしいタイミングだろうと、何というご都合の間違いなさであろうかと言う様な日々を私共は刻々の中にでも頂いておる。
何故それを頂いていかなければいけないのかと。何故それを頂かなければと。私はあの、先ほど原さんのお届けさしてもらってから、はあほんなこそうですなあと言うて、まあ私は思ったんですけれども。お知らせを頂いておられます、ね。例えばそう言う様なです、日々間違いがない、神様の働きの中に、おかげを受けておるんだなあ、という実感の中にです、おかげを頂いておらなければ、普通であったらちょっと戸惑う様な。
ちょっと度胸定めなければならんような、または二の足を踏むような事柄も、その中にはあるということ、ね。そう言う様なものに、こういう間違いない働きが、おかげの中にあるのであるから、それを二の足を踏むこともなければ、わざわざ度胸定めることもいらん。もう普通のこととして、その人が、例えば二の足の踏むようなことの中にでも、人が度胸定めなければ、入られない様な所にでも、すうっとこう入っていけれる。
神様のお働きの中にこうあっておるんだからと。ここが私は素晴らしい。だから日々間違いのない働きの中におかげをこうむっておるということはです、ね、皆さんがなら、私の信心をご覧下さってから、いつもそれを見てもらったり聞いてもらったりしておるわけでございますけれども、何故そうでなからなければならないかと言うこと。例えばんなら自分の思うようにならない様なことが起こっておる。
それが肉眼には見えておりましてもです、こういう間違いのない働きの中に起こっておるのであるから、これも神様のご都合に違いはないとして、そのことを合掌して受けて通れれるでなからなかった。神様と遠いものに、遠いところに神様をいつも置いておってですたい。さあそこで迷わなければならん、二の足踏まなければならん。それこそ原さんが頂いておられるように、わざわざ遠回りをしなければならない、と言う様なことにすらなりかねないのです、ね。
私は椛目で信心のおかげを頂いておるというのは、そういうようなことがです、ね、できれるところまでおかげを受けられなければだめだと。信心にもやはり度胸がいる。信心度胸がいるとこう言われておりますけれども、その度胸というようなことはです、ね、まあだ言うならば、そんなに神様を身近に頂いていないからこそ、度胸、決めんならんのです。度胸決めたら難しいこっちゃあない、ね。
当たり前なこと、平気なこととしていけるんだけれども、私共神様をその遠い所の神様にしておるから、そういう迷いやら、または二の足踏まなければならないといったようなことやら、いいや、いよいよ神様のおかげの道のここに下さっておるのに、その道歩かずに遠回りの道を歩かなければならないというような結果にすらなりかねないですね。私本当にそれを思うんです。
それはね、おかげの小さいとか大きいとか、大きいおかげの中にあるというのじゃないです、例えば私と久保山先生、私と久富先生、それはある意味合いでおかげの世界は違うです、ね。例えば私は、十の世界を通っておるならば、先生方、二の世界、三の世界を通っておられていいんです。それでいいんです、ね。けれども、二の世界は二の世界のなりにです、間違いのないおかげをこうやって頂いておるというようものがなからなければだめということ。
でなかったらです、そこんところを合掌して受ける、そこんところをのりこえていけれる、いや、その肉眼で見れば通り抜けられないように感じるもんですから、そこで迷わなければならないと(?)するのです。何でもない、淡々として、おかげとして、ね、神様のご都合に間違いないとして、そこを通れるところをです、あるいは通れんようなことになったんでは、と言うてもそこで度胸定めなきゃならんといったような、またいうようなことではつまらんとこう私は思う、ね。
そういう意味です、日々をです、ね、神様のお引き回しの中におかげを頂いておるなあというおかげの頂けれるために、私がいつも申しております、私の信心であるところの、ね、節度を守らして頂くと。成り行きを大事にさしていただくとか、ね、神様のご信用を頂くためなら、ね、時間でん切るごとあることがあっちゃあならないとか。日にちを間違えるようなことがあっちゃあならないとか、夕べの御理解でしたね。
商売人が、ね、4時にお会いいたしましょうと言うておってから、5時になっても6時になっても行かんというようなことではもう、あの商売人はだめだと、よし、その商品はよかってもこの次にはこの人から買うまいというように信用を落とすと。そういうところを大事にしていこうと、ね。
ような信心に私は取り組んで、そこんところに精進していかなければならない。そこから、神様は本当に間違いのない、刻々に、日常茶飯事の中にでも神様のご都合ちゃ、もうね、恐れ入ってしまうなあというような毎日を通らなければ、そういうおかげを頂いておらなければ神様を身近に感じることはできないということなんですね。
どうぞ。